薄い造りの須恵器が鹿台遺跡(ろくだい)から出土しています。
716年1799人の高句麗人が高麗王の許 ここに高麗郡が敷かれました。その折の持参品や 当時この地に須恵器が入ってきていた事になりましょう。
鹿台遺跡の北東800mの地点に高岡窯が既に稼動していて おそらく金(キム・またはコム)氏によって運営されていた筈です。それは大和朝廷に追われる種族 例えば「出雲族」かもしれません。
「日本書紀」には蝦夷(えぞ)と標記されていて900年に亘り征伐の対象にされました。
高岡窯はその前からこの様な須恵器や布目瓦を焼いていました。
高麗郡が敷かれると 高麗王(若光王)の王族のひとり肖奈福信が大和に召されます。これは捕虜の意味が含まれます。その時丘登(オカト・後 おかのぼり)氏が随行し 8年間大和周辺で窯を学んで帰り 高岡窯に入ったのでしょう。以来焼き物が変化したはずです。布目瓦の28mm厚が出ていますので武蔵国分寺の瓦も携わったのでしょう。肖奈福信は右大臣空席の左大臣(従三位下)まで出世しますから 高麗郡は朝廷の思惑通りに進んだのでしょう。丘登氏は本家は飯能市に移転 分家が高岡に残っています。金氏はおそらく金子氏(本家は移転。分家は付近に多い) 金井氏は窯跡に現在も居住しています。
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