2011年1月18日火曜日

海綿骨針の化石

この化石は白色針状物質とも呼ばれていてる細かい針状の物質です。これが須恵器の内部に含まれていて スポットを当てて拡大するとキラキラ輝く事もあります。南比企丘陵(現在の鳩山町周辺)窯で焼かれた大きな特徴なのです。

薄い造りの須恵器が鹿台遺跡(ろくだい)から出土しています。
716年1799人の高句麗人が高麗王の許 ここに高麗郡が敷かれました。その折の持参品や 当時この地に須恵器が入ってきていた事になりましょう。



鹿台遺跡の北東800mの地点に高岡窯が既に稼動していて おそらく金(キム・またはコム)氏によって運営されていた筈です。それは大和朝廷に追われる種族 例えば「出雲族」かもしれません。
「日本書紀」には蝦夷(えぞ)と標記されていて900年に亘り征伐の対象にされました。
高岡窯はその前からこの様な須恵器や布目瓦を焼いていました。



高麗郡が敷かれると 高麗王(若光王)の王族のひとり肖奈福信が大和に召されます。これは捕虜の意味が含まれます。その時丘登(オカト・後 おかのぼり)氏が随行し 8年間大和周辺で窯を学んで帰り 高岡窯に入ったのでしょう。以来焼き物が変化したはずです。布目瓦の28mm厚が出ていますので武蔵国分寺の瓦も携わったのでしょう。肖奈福信は右大臣空席の左大臣(従三位下)まで出世しますから 高麗郡は朝廷の思惑通りに進んだのでしょう。丘登氏は本家は飯能市に移転 分家が高岡に残っています。金氏はおそらく金子氏(本家は移転。分家は付近に多い) 金井氏は窯跡に現在も居住しています。

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