主尊は「キリク」で阿彌他です。その下に受花があり そこから施行年が刻まれている筈です。
「貞和」と判読出来ます。続いて中央から斜め下に向かう3mm程の線が確認できます。これだけです。
「貞和」は五年で年号が変わります。一年が「己酉(きのとり)」二年が「丙戌(ひのえいぬ)」三年が「丁亥(ひのといのしし)」四年が「戊子(つちのえね)」五年が「己丑(つちのとうし)」です。3mmの中央から斜め下に向かう線は四年の「戊」の上部に違いありません。つまり「貞和四年 1348年」ですね。そのように解読できました。この年は北朝の 崇光天皇の時代であり 板碑の台頭期から百年ほど経過した最盛期に当たります。
石材は「緑泥片岩」 秩父長瀞 小川町下里などが産地です。この石材とは人類の付き合いは古く 縄文時代には石皿 凹み石(木の実を割ったり 大きな物は中央部が擂鉢に利用したりしています)などに 古墳時代には石室に利用してきました。
上部幅が165mmです。この年代の例から推察すれば全高600mm前後でしょう。290mm位置で破損していますのでほぼ半分残った事になりますが 「戊」の上部3mmが残ったのは幸運です。
山部の右側の乾燥が遅れています。これは上方からの打撃などを受け損傷しているからです。速やかに補強せねばなりません。
今回8点の破片を採取しました。後程 供養をして市の担当部署に引き渡します。
出土した残土山の表層部からの採取しか出来ていません。松が明けたら採取品の所見を地主さんなど関係者の方々に説明をし 残土山を探る事にしています。
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