2011年2月18日金曜日

すいたい

衰退
板碑の材料である緑泥片岩は柔らかい。反面 加工しやすい 平面性がある 素材の美しさ などの長所がございます。供養のために造立した中世の人々が石材を選択した要因は木材の板よりは保持できる事ではなかったろうか。まして600年 700年も後の我々に完璧に見せようとは思いもつかないことだ。板碑は長年風雨にさらされてきた。現在進行中の残土山に閉じ込められた板碑はもっと過酷である。二次使用で流水に晒されたかも知れない。重機で幾度となく打撃を受け 土中で侵食された。
採掘はある意味地獄からの救出に似ている。

17日夕刻に近い僅かな時間を見つけて行った採掘で新たに3点見つかった。
表面から1600mmの深い部分に埋まっている。この状態で100mm角程度 露出した。発見から30分は彫り続けている。硬く締まった土壌は長い期間放置されていた事を物語っている。この残土山は長い期間近所の子等の遊び場に化していたと聞く。
掘り出すのに90分 洗浄した板碑がこちら
板碑の重要部分であるが 表面の衰退は激しいものだ。異体文字「キリーク」そして蓮華座は坂戸市浅羽の大板碑に酷似している。勧進の造立年月日は判然としない。なお解読作業を継続しましょう。仕上げた表面が残らないほどの浸食が激しい。
最盛期のものであろうと推察する。
その他は
これは浸食からは逃れている。条件が良かったのでしょうね。異体文字の「キリーク」。「ク」の2点が下がりぎみ。二条線の下部から割れた。
剥片でしょうか?


もうひとつは 問題の須恵器です。
上が器の内部 下が外部。初期の須恵器のようです。海綿体の化石である「白色針条物質」が混入しているのは 南比企丘陵窯群の須恵器の特徴です。外部の黒色に見えるのは汚れではないようです。あるいは墨蹟か?
これで須恵器が3点採取されました。生産時期は100年ほどの隔たりがあります。いずれも南比企丘陵窯のもの源地の特定は案外可能かもしれませんが 立ちはだかる難問があります。

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