2011年2月28日月曜日

母娘

いたち(てん)の「はは」と「むすめ}
二体の全身白骨が 完璧なかたちで


ある。
                                                   これが頭蓋骨です。
どうする?

家に持ち帰り保存する?

??????考慮中??????

特別きたない!

白幡遺跡周辺の或る特定の屋敷辺りからの出土品が「こきたない!」
どれもこれも まことに洗浄が大変であり また洗浄も細心の注意を払わぬと損壊する。脆くなっている。何か原因があるのだろうか?
採取したくない。
以上3点は縄文土器
以上2点はナイフ型石器の欠けたもの。


お口直しに大寺廃寺遺跡から出土の「磨製石斧」美しい姿だ。

完全な「短冊型」は出土例が少ない。

はくびしん
白鼻芯

埼玉県指定文化財「大寺廃寺遺跡」を守る地主 荻野家本宅が建替え工事に入った。
130年を越える木造建築を解体したら はくびしんの頭部の白骨が出てきました。
右側がノーズ 下が右目部 左が首部です。
あご側 牙が抜け落ちてしまっているのが残念。
咽喉の部分。
咽喉穴から頭蓋骨の裏側を。
消毒と第1洗浄が終了した状態。
仏前で慰霊いたします。
もっと白くする事も出来ますが この辺の色で終えたほうがナチュラルかもしれません。
近所の小学生グループで興味を持っている方々がいますので 見せて上げましょう。市の中央図書館でも標本を何点か展示したこともあります。子供たちは興味深々で瞳を輝かせますよ。

倒壊

高根の池 畔に赤松が何本か並んでいたが その一本が突然倒壊した。幸い怪我人は出なかったが危険極まりない。

今朝は「あおさぎ」が 見回りに来ていた。

2011年2月25日金曜日

命日

国鉄時代 そしてJRとなってからも含めて 最大の犠牲者を出したのは ここが現場です。
今日が命日で ご遺族の何人かが訪れて顕花されたようです。八高線 高麗川駅手前のカーブでの脱線事故でした。この慰霊碑は昭和54年の33回忌に建てられましたが その数年前に地元の篤志家S氏とある石屋さんとでご遺族に計って「聖観音立像」を予定していました。ところがS氏が急死したために計画は頓挫してしまいました。そんな逸話が残っています。

完了

残土山との格闘は 一先ず完了しました。
板碑30枚大きめのブロックが25枚・・・
日高市と川越市のプロジェクト?は舞台を文化財室に移して次の分析に移ります。
来週 搬入が行われます。

結果を川越市立博物館長にお伝えする事になります。

残土の隣に事務所を構えておられるT社長と 事後の慰霊を行いました。
結果を報告に四本木の大板碑に。
こちらも慰霊を。
地主に報告をして 文化財室に伺います。

2011年2月24日木曜日

己との闘いであった。
残土山との格闘。
本日で終了する。

前残土の未採掘が少し残るので明日それを終え 慰霊をして完了しよう。
市とも打ち合わせを終えた。引渡しなど段取りも打ち合わせた。

最終日は打ち上げ花火のように出土した。

帰宅の荷が多くて参った。洗浄後の主な遺物を。

本日のハイライト 正体キリークの格の高い堂々たる板碑。
上部の二枚の割れは新しい。中間部が見当たらないが最下部が採取された。三点は同一板碑。
しかもPHOTOでは不鮮明だが彫り部に金が施されている。ピンが悪いがUPします。

残りが見つかればいいが。同一板碑の破片が出たのは初めてだ。

異体キリーク 破片が既に採取されているかもしれないが・・・

上部 キリーク? 受花の一弁のみが残る。

異体キリークの一部と五弁の受花。

右肩部 山形の最下部と二条線 そして異体キリークの右端。

2011年2月23日水曜日

22日に採取した布目瓦と須恵器を
先ずは布目瓦から
23mm厚 女瓦 奈良期 大型の建造物用 僅かに白色針状物質が確認できますので南比企丘陵の窯製でしょうか。
15mm厚 表面は縄敲き仕上げ 高岡窯製かも知れません。
15mm厚 いわゆるヌケといわれるもの 焼き仕上げ時に窯の密封が出来なかったために赤い色になる。
布目面に修正時についた指の跡が残る。12mm厚。大寺廃寺で3年前に同じように指による修正跡の残る布目瓦が出土し毛呂山町歴史博物館に提出してございます。
10mm厚 瓦かどうか不明。

次は須恵器です。

糸きり部(底)



以上です。

「女影廃寺」は女影墓地周辺にあった可能性が出てきました。高萩三十三間堂はその伽藍の一建造物かもしれません。