2011年4月29日金曜日

貞和四年(1348年)と推定される阿弥他尊板碑

原宿の残土山から1月~3月にかけ発掘した50点を超える板碑片を5月2日 正式に教育委員会文化財室に提出する。発見の経緯 発掘の状況などと調査した資料を添え ダンボール7箱に纏め 約2ヶ月を経過 源の川越市教育委員会や地主 日高市教育委員会など関係部署の環境が整いました。板碑個体数にして30あまり 実に有意義な“学び”の場を満喫させていただけた。関係各位に感謝して止まない。川越市立博物館館長には親しく文化財に対する捉え方をご教示いただいた。学芸員各位からは貴重な周辺情報をいただいた。主幹からは文化財の扱い 分析等々ご教授いただいた。館長には私の研究事項の拙い日本美術史に耳を傾けていただきアドヴァイスまで頂戴いたしました。 その上 数々の史料をご自身で目を通したいとの要望さえいただくことになった。竹田観光協会副会長とは親しい関係が今後も継続するだろう。

荻野氏から渡された「板碑調査報告書」 この一冊から全ては始動を開始したのだ。織戸市朗さんという中世史のエキスパートの軌跡を辿り それは智観寺の前住職の博学 集合する学識者に及ぶ。
謹んで感謝いたします。霊前にご報告をいたします。

主幹がご多用中でありながら調査報告書を纏めます。煩雑な仕事を強いてしまいます。できる限りのサポートを惜しみませんが 足手纏いかもしれません。

いずれ「調査報告書」がまとまります。地主 協力者の竹田氏 採掘を手伝った細田少年 そして荻野氏 智観寺住職 前住職 織戸市朗氏 内室 子息司郎氏 川越市教育委員会 川越市立博物館 館長 学芸員 各位に「お礼」とともに手渡しいたします。
関係各位にご報告と共に感謝の意を伝えます。


提出を待つクッション材で梱包された板碑。

2011年4月27日水曜日

刀らしい。
若宮遺跡の中央から出土した。
左が嶺 右が刃。
小口をみると鍛造した形跡が見て取れる。
しかし 幅が30mmとは細すぎる。45mmはある筈だ。
それに少々重量感が残る。鉄の性質が抜けるので 軽くなるはず。
これは急ぎ教育委員会に提出した方が良い。

午後にもう一片出土した。
明日も教育委員会に行かねばならなくなった。

2011年4月23日土曜日

女影三十六軒
佐島本家当主と親しくして頂けた。当主のお話になるところでは

女影は三十六軒の集落で一部移転した家もあるが 現存している。
佐島 村田 松本 吉田 加藤 中善寺 鈴木 小島 福島 森 等々。
若宮遺跡がその範囲だ。若宮という地名は南西のほんの一部の小字名です。
高萩三十三間堂は小島家(時計台隣)の畑から佐島本家の畑にかけて建っていた。京都に今も残るように千手観音像が千一体が納められていた。鎌倉幕府の末期 新田義貞率いる幕府軍が敗走する際に これに火を放ったために焼け落ちた。今も地下60cmに焼灰が残り 礎石も一部ある。
八葉複弁蓮華文軒丸瓦のPHOTOをお見せし説明をしたところ それらしい瓦を見たことがあると仰った。

集落には高句麗渡来人の影は薄く 高麗神社との繋がりも希薄のようだ。女影寺の伽藍を構成する各建造物は80年位でほぼ失い 三十三間堂と薬師堂が残り 跡地に寺院の関係者が残り 高麗家本体は西に移動して行ったのではないだろうか。三十三間堂は南東方向に振れている。伽藍は七堂以上で構成されるのが常であれば 金堂など重要建造物の立ち位置は現在調査している位置が西端である。

2011年4月22日金曜日

三澤さん
ギターグラブ「オルフェ」
マンドリンクラブ
ふたつの素晴らしいミュージッククラブのウッドベーシストです。
マンドリンクラブは3月に年一度のコンサートの予定があった。

3-11

その「爪」は広範囲に鋭く抉った。いまだにメンバーの精神が回復しない。
勿論 コンサートは延期。

しかしよく考えよう。
こんな時こそ ミュージックが必要なのでないか。
ミュージシャンは勇を奮って立ち上がり 生の音楽を広く届ける努力を。
だれもがそれを望んでいる。

昨日午後から練習を開始した。
未だメンバーが揃うことがなかったが
休まず続けて欲しい。

ベーシスト ミサワさんは奮闘している。

10月にコンサートを開催することを決めた

彼のために「Gnossienne No.1」の変奏曲を準備します。ウッドベースの独奏曲なんてこの世にないのです。たのしみ~~。うlふ。
ベイシア開店以来 働いています。

2011年4月21日木曜日

六葉単弁蓮華文軒丸瓦(直径160mm)

ついに採取!!

興奮です。
若宮遺跡は37次にわたり発掘されている。そのうち3次と7次の二回だけこの瓦が出土しています。合計7片だけ。火の見櫓の下(3次)とその地点から南の7次 もうかなり昔のことです。
この畑で見つかりました。4月21日午後3時。
これは天武天皇朝が威信を掛けて高麗王の寺院に施工したものです。
高萩三十三間堂かもしれません。それが女影寺の金堂(本堂)だったのかも知れません。
平瓦の唐草模様といい この六葉・・・といい 何と幸せなことか。
明日からこの畑の周囲を探ります。まだ出てきます。

還元焔焼成も良好 青灰色で白色針状物質(海綿体化石)を含んだ材質から 南比企丘陵窯郡の製品であろうと思われる。

2011年4月20日水曜日

板碑に魅入られているようで・・・
若宮遺跡でも採取しました。
10片ほどですが その内のこれは梵字のキリークの左下部です。

この部分です。
スケール比率から推すと幅250mm高さ1000mm程度の板碑でしょう。中世に意図的に埋めたと考えます。
板碑の中央よりやや下部に下がった部分で左側部です。施工年月の部分でしょう。左肩より少し下がった部分に横線のEND部が確認されます。経文の一部かもしれません。厚みや文字のスケールから一回り大型の板碑でしょう。

2011年4月19日火曜日

若宮遺跡で一番多く出土するのが「布目瓦」です。現在110アイテムを超えました。殿堂級に使用される厚さ26mm~30mm(唐尺で8~9分)のものは 火の見櫓の南50mから北80mの範囲が多いことも解ってきました。これから徐々に東側に範囲を移しますが これまでで顕著な事は 焼成が良好で手に痛みが感じられるような新鮮なもの(昨日焼きあがったのかと思われるほど)がある一方 還元焔焼成が不完全でアンバー色を超え白化しているものまであると言う事です。窯は南比企丘陵が多いようです。


石器の分布は一様ですが 縄文土器と須恵器の分布は 南側に偏重しています。ただ須恵器は北側に高級なものが多い様に思います。
中央部から北に殿堂級の建造物 南に庁堂級の建造物という伽藍であったように思います。
これが女影廃寺 高萩三十三間堂の伽藍構成ではないでしょうか。

布目瓦の「女瓦」 つまり平瓦の瓦当(がとう)部に唐草模様が使われていた。
4月14日の分布調査で採取された遺物です。このデザインは左右対称の筈ですから 丁度中央部になります。調査中ですが初めて採取されたもののはずです。厚みが唐尺で9分ありますから 金堂または同等の建物に使用されたと思われます。当然セットの軒丸瓦は「八葉・・・」または「六葉・・・」でしょう。若宮遺跡の西縁ぎりぎりの地点からの出土ですから興味は尽きません。市の担当も頭を抱えましょうね。

ところで「唐草模様」ですが 中国の「唐」の草を使った模様と言う意味ですね。しかし源はギリシャでして シルクロードを通って入ってきました。飛鳥時代と言うのが定説でしょうが もっと以前に九州に入っています。「唐草文様」というと 日本流にアレンジした部類になります。この出土した布目瓦に使われているデザインも「唐草文様」に入ると思います。

最大の目的である「八葉・・・」に一歩近づきました。

2011年4月17日日曜日

20個目の記録
白幡遺跡から採取された20個目の石鏃。
チャート製 完全形といえる。
記念すべき20個目がこれである。不思議な縁を感じざるを得ない。
感謝したい。

2011年4月13日水曜日

若宮遺跡は広大です。
その西側の外に当たる地点で布目がごそごそと。
この分だと女影廃寺はやや西の地点に建造されていたのかも知れません。
採取した布目瓦から紹介いたします。
①15mm厚の男瓦です。南比企丘陵窯製で焼成良好。表面は縄目たたき仕上げの後へら仕上げを施しています。
②16mm厚の女瓦。縄目たたき仕上げ 同じ南比企丘陵窯製。焼成良好。
③ ①と同じですが13mmと薄い。
続く

一字一石経
で有名な寶蔵寺の桜。
伽藍も清楚 本堂も清々しい。スズメバチの巣が2つになった。
仰ぎ見るのも一興ですね。

2011年4月11日月曜日

無関心
4月10日に行われた埼玉県議会議員選挙の投票率。

県平均投票率・・・・・39.54%
市平均投票率・・・・・42.41%
高根小投票率・・・・・27.41%  男・・28.18%  女・・26.63%

市では最低。高萩北公でさえ32.10%だ。ほぼ4人に一人しか投票していない。
昨日団地内の義援金について町会長と話し合ったが 投票のことでも話し合わねばなるまい。引続いて市会議員の選挙が始まる。

2011年4月9日土曜日

成長が早い。
一週間ぐらいで十分食べられる。
2~3株育てれば十分かもしれない。

西

西仏遺跡と北中沢遺跡の展示品



西仏遺跡


土偶は出土が希ですから貴重です。土器製造は女性の仕事であるというのが学会の通説ですが不思議なことに土偶は女性を表現していることが多い。しかも女性特有の事項部を強調する表現を鑑みるとこの通説に「異」を唱えたい。おそらくこの傾向は“豊穣”の祈りを籠めたと結論づけているのだがそれだけだとは考えられない。勿論縄文時代に農業らしいことは存在したと思う。しかし土偶はもっと用途を広げて考えるべきだ。
このネーミングには違和感を覚える。
ピンがきていないので理解しにくいかもしれない。これは撮影しなおすがアイテムは非常にシステマチックで精巧に仕上がっている。形成に新しい方法を見つけたのだろうか?
非常に重要な遺物で詳細な分析と考察が必要です。
動物を追い込んで確保するおとしあなです。縄文中期の地質からでした。

北中沢遺跡
ここからは両方の遺跡分
黒曜石が3点 チャートが4点 残りのひとつは安山岩のようです。

石皿です。円形のものは摺り石です。石皿の材質は上ノ原遺跡でも六片でています。