2011年8月26日金曜日

施設情報MAP

http://maps.google.co.jp/maps/ms?msid=215409002281667471195.0004aa94943b8c46fe4c1&msa=0&ll=35.91686,139.32827&spn=0.076185,0.110378


上記URLを「コピー」してお使いください。
PCが言うことを聞きません。暫くはこの方法しか取れません。

2011年8月7日日曜日

主催 日高市観光協会
「子ども金魚すくい大会」  7日(日) 11:00  13:00 の2回金魚が放流される。8月の第一日曜日に例年行われるが今年は台風のため第二会場の北平沢運動場前川原が増水状態が続いているため中止され 巾着田管理事務所前川原だけの開催となった。
協会のWEBSITEのPHOTOは昨年の様子がある。
 今日は人出も多いし 大盛況となる気配濃厚。
スタートを待つアイテムの金トトちゃん。















始まってみればスッチャカメッチャカ 小学生以下の条件なんて物ともせず 大人の方が夢中でしたね。
市外からの参加が圧倒的に多いのが良かった。みなさ~~ン 来年も来て下さいね~~。

2011年7月31日日曜日

聖観音に脇持

教育委員会の案件で的場までゆく。
西図書館で用件を済ませ
美味しいパンやさんの誘惑も抗し難いものがあるが 雨模様で諦めよう。
自転車安全コースを開拓したので(自動車にも良いが)あまり苦にならなくなった。
下高萩公民館に中々な石碑を見つける。
小雨に負けず拝見することに。お地蔵様などの祠の奥にレリーフのある石碑。
以前市史で見た覚えがある たしか華厳宗系の供養等の筈。
主尊は左手に蓮華蕾をお持ちだから「聖観音」ですね。下部のお二人は誰?
「観音菩薩」は三尊を執らない。市史には明確にはしていなかった筈。
だれ?
側面に「奉読誦不門品供養塔(ほう どく じゅ ふ もん ぼん くようとう)」とあるから 村人有志の何人かで「法華経第25品」 世に「観音経」と言われているお経を規定回数納め 近在の方々も含めて救われるよう供養塔を建立したのです。

文化五戊辰年三月吉禅日
武州高麗郡下高萩邑(むら)とあります。1808年ですから約200年前でした。




北斎49歳 読本の挿絵の時代 この年 馬琴の「椿本弓張月後編」が話題となった。
柳亭種彦との交流も盛んであった。 

2011年7月18日月曜日

仲原長老  高麗の生き字引。
今年80歳を越えた。仲原家は巾着田から西に台(だい)地区と言うところがあるが そこの出自である。台地区には加藤家という名家があり三軒並んでいた。真ん中に挟まれた加藤家が紛らわしさを避けるために「仲原」と改めた。そして江戸期頃に現在地に移転したらしい。長寿寺の檀家で歴代住職などの碑域に仲原家の墓石などがある。その中に五輪塔の部分や板碑も完形ではないが3枚ある。長老に清流地区の関口家の板碑を観て置くようにと言われた。暦応二年の「名号」のもの 観応元年の「弥陀三尊」二枚のことだろうと思う。いずれも高さ1000mmほどの立派なものだと思う。関口家には他に清流地区で採取した三片の板碑も所持しているようだ。長老の威光で拝見できるかもしれない。

長老はお元気だが歩行が少々不自由だ。移動はもっぱら軽トラだが危険なので電動車椅子に変えて欲しい。来年の免許更新に不合格ならそうすると言って受け入れてくれない。

あけぼの
なでしこジャパンの世界一を祝うように 立待ち月と輝いた。


日本の戦い方は なでしこジャパンのように「力づく」ではなく「柔軟に」です。

2011年7月16日土曜日

巾着田はこの地に移転した六年前と 現在とでは見違えるほど整備が行き届いてきました。その影には或る方の弛まぬ尽力があります。「関根文明氏」 梅からスタートし 菜の花 桜 紫陽花 蓮 曼珠紗華 コスモス・・・・一にかれの双肩に懸かっておりました。

肺癌

元気だった男をあっという間に 亡き者に。
晩春には「ひと足おさきに」の挨拶もなく 旅立ち。

ここ二年ほど 遺跡に関心を持たれ 私の採取した遺物を手にしながら話を聞いてくれた。質問もし 自らも異物を採取するようにもなっていた。去年の暮れに黒曜石を中心にした石器を説明したのが最後になった。私は新年から残土山の板碑を発掘にするのに感けた。公式な報告書を見ていただこうと訪れた7月。彼の急逝を告げられ 膝から崩れ落ちた。奇しく新盆の入りの日。
彼が最後に手掛けた蓮田が盛りを迎えていた。
例年より蓮華の輝きが違う。
 大賀蓮
 桜蓮
 「?」

 仏足蓮
 明光蓮

 剣舞蓮
 輪王蓮
 剣舞蓮
 玉繍蓮



できればクリックして原寸でご覧ください。またはPicasa ウエヴアルバムで拡大してご覧ください。

2011年7月13日水曜日

いわゆる「分布調査」は単独では不可能です。
先ず 各行政地域の教育委員会のご理解 そして何より地権者(地主様など)のご理解 分野の先達有識者の方々・・・・実に多くのご協力を頂いております。
先般の正規「板碑調査報告書」をそれらの方々にご報告がてら閲覧して頂いております。今朝も朝5時から 早朝に畑仕事をする地主様五人の方々に行いました。今日は隣接市の教育委員会と市立博物館へ そしてこの地方の中世史を築き上げた故織戸市朗墓前にご報告に伺う予定です。

2011年7月9日土曜日

2011年の半分を費やした残土山の板碑の正式調査報告書を昨日受理した。略式ながら公文書である。
 発行元や責任者 担当者などの記述が無くても良いのだろうか?博物館長(川越市立)殿にお持ちする分を預かっている。
 拓本にするとはっきり刻文字が読めるようになるんですね。

 問題はこの「貞和」年間の板碑です。打ち合わせたしメモも入れたのに 肝心の「貞和戊子」の確認が出来ていません。調査票には「貞和年間 1345~1349」とありきたり。1月3日のこのBLOGにも記しましたが 明らかに「貞和四年」1348年です。調査員の見落としと思われ連絡を入れたら2週間以上の時間を必要とするらしい。連休もあるしなぁと諦めるしかない。
「貞和」に下部 割れたところ中央に「戊」の頭部が残っています。確認してください。
板碑は中世の供養塔です。その史料は非常に少ない。まして民間史料などはなお更です。板碑はその数少ない貴重な史料なのです。重要なメッセージをきちんと受け止めるべきでしょう。